2019年12月23日月曜日

死は存在しない

過去記事を載せました。
20170925

道を走っていて稲荷神社に遭遇すると、無名だろうが有名だろうが、時間と駐車できる場所があれば極力参拝することにしている。

先日もそのような神社を見かけたので、立ち寄って参拝することにした。

その神社はこじんまりとした古墳のような、土の盛り上がったところにぽつんと小さなお社がある神社?と言うより個人で祭ったようなところでした。

クモの巣が張り、草ぼうぼうで、そこにたどり着くまでに蛇が出ないか心配するような感じでした。

歩くたびに虫が飛びはね逃げてゆきます。

以前私は、神にとって虫も人間も同じ命であり、その重さに違いはないとFBに投稿しました。

私がそこにお参りするまでに、おそらく何匹かの虫を踏み潰してしまっただろうと思い、ちょっと不快な気分になりました。

これを書いている今、突然私の耳元にブーンという蚊の羽音が聞こえました。

思わず掌で叩いてしまいました。

この行いは善か悪かで判断すると、自然保護主義者にとっては悪であり、人間中心主義者?にとっては善であるのかもしれません。

こんな事を真面目に考えているお前は相当暇なんだな?と読んでいる人に思われるかもしれませんね。(笑)

人間生きていれば、必ず不可抗力で自分の意志とは違うことをしてしまうことは、避けることは出来ないでしょう。

どんな潔癖な人だって、間違いを犯さずに生きてゆくことなど出来はしません。

もし昆虫と人間の命が同等と法律で決まったら、そして死刑制度が存続していれば、人間みな死刑になってしまいますね。

そんな世の中が来るとは思いませんが、何か似たような感覚がこの世に蔓延してきているような、そんな感覚を拭えません。

では神から見た場合、不可抗力で虫を殺してしまったら、その償いをしなければならないのか?

そんな事は恐らくないでしょう。

人間の体は細胞の集まりであり、各々の細胞がその特色を生かして働くことで、人体を形成している。

だから、社会における個人を細胞に例え、個人の尊重が大切であると書きました。

その個人を無視することによって、社会に問題が起きることが悪の働きであること。

悪の働きは、より良くなるための善への働きであるということ。

で、考えてみると人間の体も他の生物の体も細胞が集まっただけの、ただのサークルや市町村、国と同じなんですね。

その集まりが崩壊したときが、死と呼ばれるものなんですね。

それって、本当の死なんでしょうか?

もちろん細胞レベルでは確実に死んでいます。

しかし、今の科学ではもっと細かい素粒子まで発見されています。

じゃあ、素粒子の死ってあるのでしょうか?

ここが重要なところです。

素粒子の死がない以上、死は存在しないと考えるのが正解なのではないでしょうか?

細胞も人間の体もただの素粒子の集まりです。

そして細胞が集まって脳が出来て、色々なことを考えます。

この脳の考えることは、神の法則を確実に表したものではありません。

個人個人の考え方の違いがそれを端的に表しています。



私の個人的な考えですが、その素粒子こそ神の命の源であり、神の法則を表したものに違いないと。

生きているものが死ぬと、食物連鎖によって食べられたり、腐敗して分解されたりして、素粒子に戻ります。

これは、その形作っていたグループがただ単に壊れて、元に戻っただけなのではないかと。

だから、死というのは素粒子のグループの解散にすぎないのではないでしょうか?

そのように考えると、善も悪もなく、善や悪などというものは、人間の脳が作った錯覚にすぎないのではないかと。

日月神示の言う、ただ弥栄するだけというのはこのことかもしれません。

だから、この世に起こることは、全て神の法則の中に存在していて、神の意志の反映でもあるのかもしれない。

素粒子が集まって、何かの形を作ることも神の働きであることに違いはないはず。

あらゆる物や生き物が存在してこの世界を作っている。

その素粒子のサークル?グループ?が意志を持ち存在している。それは、グループの意志であり、団体活動の目的のようなものでもあるのですね。

その素粒子の集まりである人間や他の生き物がこの地球に共同生活をしているわけです。

弥栄するためには、歓喜に向かう必要があるわけです。

歓喜を知るために五感があり、それはその役割の細胞が担っているわけです。

歓喜は一部の者だけのモノではなくて、全てが歓喜に向かわなくてはなりません。

それが大歓喜といわれるものです。

一部の者だけの歓喜を求めるのは、獣の世界でしょう。

全てが歓喜に向かうために、悪の働きがあるのです。

その悪の働きが起きないようにすることが、弥栄に向かう近道になるはずなのですが、そのことを理解していないとまた戦争を起こし、

堂々巡りになってしまうのでしょうね。

いずれにしても、死は存在しないので、大罪というものも存在しないのかもしれません。

でも、弥栄に向かう神の意思に背いた人間には、それ相応の禊というものが訪れるのではないでしょうか?

人間が罪を犯して心が辛くなるのは、大歓喜に向かう神の意思に背くからなのかもしれません。











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