2019年12月23日月曜日

この社会の仕組みを考えよう

これも過去記事ですが載せておきます。
20170204
以前、宇宙の法則に従って、人間の体が作られたという記事を書きました。

各々の細胞が協力し合って臓器になり、その臓器が自分の役割を全うして、一つの生命が保たれていて、そこには優劣などなく、役割があるということ。

そこに、宇宙の法則を無視して脳が暴走すると、各細胞に負担がかかり病気を引き起こすこと。

病気を悪とするなら、もともとの細胞は悪ではなくて、善だったものが環境によって悪となること。

悪を封じ込めるのが善だと勘違いした考えが悪そのもので、悪には悪の役割があること。

だから、脳の役割は各々の細胞のことを考え、全てに栄養が行き渡り、疲労が蓄積しないように決定をしなければならない。

その体の仕組みと同じように、今の社会が形成されているのであれば、国民が細胞で、政府は脳の役割を果たさなければならないはず。

それがうまく行けば、国民に不満が起こるようなこともなく、社会は平和になるのだろう。

しかし現実を見てみると、脳ばかりに栄養が行って、細胞の国民は喘いでいる。

人間の体を見てみると、ちゃんとセンサー(五感)があって、細胞の状態を把握出来るようになっている。

人間の細胞には神経組織が繋がっていて、それが脳までちゃんと達している。そのセンサーに耳を傾けて行動すれば、健康でいられるのだろう。

実際はそのように全て自分の思い通りには行かないが、少なくともそれは指針になるはずなのだ。

このような人体の仕組みは、長い年月の末にこの宇宙の法則を体現したものに違いない。

まだ、人体も完全ではないが、その法則に寄り添っているから存続できているのだろう。

この宇宙の法則に逆らっては、存在そのものが認められなくなってしまうのは必然のような気がする。

で、今の社会と比べてみることにする。

今の政治に民主主義が反映しているのだろうか?

人によっては、これが民主主義だと主張する人がいるようだが、私はこんなものは民主主義とは思わない。

その理由の一つ目は、多数決による議会制であること。

これは、少数の意見を全く反映しない。

代表を選ぶ段階で、すでに少数の意見は切り捨てられているのである。

人体には、基本的に不必要な細胞はない。

役割があって必要だから作られているからである。

手には手の、足には足の役割がある。それらを差別して栄養が行かなくなったらどうなるか?

説明しなくても解りますよね。

手からの情報で、怪我をして細胞が死にそうだという情報が来たら、それを脳が判断して適切な処置をする。

これが健康な体を維持するために必要な仕組みなのです。

ところが、今の民主主義といわれている仕組みには、このセンサーがないのです。すでに代表選出の段階で手のセンサーが切られているのです。

それによって偏った情報しか届かない。

これじゃあ、まともな社会を維持できるわけがないですよね。

もう一つは報酬の問題。

ほとんどの紛争は、この報酬の問題が原因ではないだろうか?

上?に行くほど報酬が高くなる。

これも人体に照らして考えてみると、間違いであることがよく解る。

良く言われるのが、良いことをしたから報酬が高いのは当たり前だ。

一見もっともな主張のように聞こえるが、どうだろうか?

この報酬を栄養と考えたら、栄養過多の細胞は病気になります。

動いたら動いただけ栄養があればいいのですが、溜まってしまうと腐ってしまいます。

この行きすぎた富は、自らの欲を達成するために使われます。

ためすぎて脂肪肝になり、他の臓器に負担を掛けます。

美味しい美味しいと肝臓と味覚が共謀して、体を壊してゆくのですね。

一つの細胞が得る栄養には限りがあります。これは、食費と所得の問題を考えるのに良い材料になります。

さらに、決定権の問題があります。

今一番話題となってなっているのが、アメリカの大統領令ですね。

このシステムは非常に危険です。

これも人体に照らすと解りやすくなります。

脳細胞は一つではありません。

はい!説明終わり。(笑)

このことから、私は天皇制も王政も大統領制も否定します。

日本だけ天皇制が正しい、とは考えられません。

だから、シュメール文明も、エジプト文明も否定します。

ピラミッド構造が嫌いです。

初めから支配層があって、上から始まったのではありません。

上?は後から出来たのです。

考えてみてください。

初めは細胞があって、それらが集まって各器官が出来たのです。

脳が出来るのは、一番最後のはずです。

人間一人一人が、一つの国と同じです。そこに支配、被支配などないはずなのです。

なんでも自由だとは言っていません。そこには宇宙の法則があるのですから。

会社の仕組みも、政府の仕組みも、何もかもこれらの法則を当て嵌めて考えてゆけば、

何がおかしいかということは、判ると思います。

どこかで考え方が捻じ曲げられているのです。

かといって、神を信じないわけではありません。

私は稲荷の神を信じています。

でも、この神が宇宙を創った神であるかというと、それは判りません。

それと同じように、今言われている神はほとんどが先祖霊であるのでしょう。

スの神というのが宇宙創造神なのであれば、それはそれで存在するのかもしれません。

以前、創造神の後に生まれた神の戦いが、今の宗教戦争だと書きました。

この創造神の法則が間違いなく受け継がれているのならば、このような戦争は起こらないのではないのか?

と思ったりしています。

フラクタル構造という言葉を良く耳にしますが、人体も地球も同じと言うことですね。

地球内での争いは、人体が病気の状態と同じです。地球規模で健康になるにはどこが間違っているのか?

これを考えることが必要です。

最後に、難民の受け入れについて書かせてもらうと、これも誤ったやり方なんです。

難民の受け入ればかりが、でんでん?されていますが(笑)、中東の人は中東に住んでこそ役割が果たせるのです。

中東の人がアメリカに行ったところで、幸せにはなれません。

難民を受け入れて、良いことをしたと考えるのは間違いです。

難民を作らないことを考えなければなりません。

そのためにどうしたらいいのか?今模索中です。

生きる価値とは

最近ある有名人が、「生きる価値がない人」という発言をしましたので、過去の記事を掲載します。
20160731
とんでもない事件が起きました。相模原のやまゆり園という保護施設で19人の死者を出した殺人事件です。
加害者のプロフィールなどはニュースでいろいろと取り上げられているので、ここでは書きません。
加害者の男は障害者は生きていても社会の役に立たないと言っているそうです。
その意見を擁護するような投稿を見たので、自分の意見を書いてみたいと思います。
私はよく解らないのですが、優生保護法というのがあって、ヒトラーの考えもこの思想に基づいているとか?
確かに、生物は環境に適合するように、自らを変えて進化しているのでしょう。
それはそれで、自然な成り行きなんだと思います。
優位なものが生き残る。それも当然ですね。
だとすると、やはり環境に適合できないものは生きている価値がないのでしょうか?
たぶんこの犯人は、経済的な理由を考えてそういう判断をしたのでしょうね。
または、そういう境遇の人達の苦しみを知っているからなのか?自ら介護の職についてその大変さを知ったからなのか?
それらの事を総合的に判断して、そういう結論に至ったのかもしれません。
もしかして、犯人は社会のために良い事をしたと考えているのでしょうか?
ヒトラーが生きていたならば、この犯人を褒め称えたかもしれません。
いや、ヒトラーだけではないかもしれません。
経済のことしか考えられない人も、これに同調するでしょう。
たとえば、政治家、経済学者、企業経営者等の中には似たような考え方の人がいるかも知れません。
これが殺人事件でなかったら、経営者には褒められるような事かも知れません。
この事件は殺人事件であったから大きく取り上げられていますが、経済活動の中では極めて当たり前のように行われている事なのかもしれません。
優秀?な社員を確保して、使えない社員を排除する。手間のかかる利益の上がらない仕事をなくして、収益の上がる仕事を行う。
従業員の削減をして、利益を確保する。
これは表彰もんですね。
このような考え方が、今の社会では求められているのでしょう。
そう考えると、この事件は起きるべくして起きたのではないでしょうか?
事の大小はあっても、多くの人がこの考え方に支配されているのかもしれません。
学校では成績で競い、親も良い?大学に入れるために必死です。会社では先ほどのようなことが求められ、効率重視です。
では、成績が劣り、体の不自由な人は生きるに値しないのでしょうか?
そういう事を重視してきた結果が、今の社会になっているのだと私は考えます。
はっきり言って、獣の社会ですね。
優生保護法も考えてみると、おかしな部分があります。
極端な言い方かもしれませんが、優秀でなければ生きることが許されないと言っているような採り方も出来ます。
そもそも、優秀とか優秀でないとかは、その時の状況によるもので、人間の主観的なものです。
そういう状況になった人の方が、人間的にも完成した人もいるだろうし、そういう事を考えることも出来ない人は、その存在によって、
周りの人に考えるきっかけを与える事が出来るのだと思うのです。
それぞれの人に役割があって生まれてくるわけです。
今の社会で持て囃される役割もあれば、人に考えさせる役割もあれば、そうでなく悪と言われる役割もあるわけです。
優生保護法では、親の生命を優先するというのが決まりらしいですが、果たしてそうなのでしょうか?
親は子を産むのが自然の摂理で、種を存続させます。
では、子供に何か不自由があれば生きる資格がないという考え方は、その子供の役割をも否定することになってしまいます。
「あなたにはその苦労は解らない。」と言われるかもしれません。
そう言われるとそうかも知れませんが、そういう考え方もあるのだという事も理解する事も必要なのかもしれません。
そのような人や子供が存在するだけで、人はいろいろな事を学ぶ事が出来ます。
今回のこの事件も、障害?を持つ人の役割や、犯人の役割?をも考えさせられる事件でした。

死は存在しない

過去記事を載せました。
20170925

道を走っていて稲荷神社に遭遇すると、無名だろうが有名だろうが、時間と駐車できる場所があれば極力参拝することにしている。

先日もそのような神社を見かけたので、立ち寄って参拝することにした。

その神社はこじんまりとした古墳のような、土の盛り上がったところにぽつんと小さなお社がある神社?と言うより個人で祭ったようなところでした。

クモの巣が張り、草ぼうぼうで、そこにたどり着くまでに蛇が出ないか心配するような感じでした。

歩くたびに虫が飛びはね逃げてゆきます。

以前私は、神にとって虫も人間も同じ命であり、その重さに違いはないとFBに投稿しました。

私がそこにお参りするまでに、おそらく何匹かの虫を踏み潰してしまっただろうと思い、ちょっと不快な気分になりました。

これを書いている今、突然私の耳元にブーンという蚊の羽音が聞こえました。

思わず掌で叩いてしまいました。

この行いは善か悪かで判断すると、自然保護主義者にとっては悪であり、人間中心主義者?にとっては善であるのかもしれません。

こんな事を真面目に考えているお前は相当暇なんだな?と読んでいる人に思われるかもしれませんね。(笑)

人間生きていれば、必ず不可抗力で自分の意志とは違うことをしてしまうことは、避けることは出来ないでしょう。

どんな潔癖な人だって、間違いを犯さずに生きてゆくことなど出来はしません。

もし昆虫と人間の命が同等と法律で決まったら、そして死刑制度が存続していれば、人間みな死刑になってしまいますね。

そんな世の中が来るとは思いませんが、何か似たような感覚がこの世に蔓延してきているような、そんな感覚を拭えません。

では神から見た場合、不可抗力で虫を殺してしまったら、その償いをしなければならないのか?

そんな事は恐らくないでしょう。

人間の体は細胞の集まりであり、各々の細胞がその特色を生かして働くことで、人体を形成している。

だから、社会における個人を細胞に例え、個人の尊重が大切であると書きました。

その個人を無視することによって、社会に問題が起きることが悪の働きであること。

悪の働きは、より良くなるための善への働きであるということ。

で、考えてみると人間の体も他の生物の体も細胞が集まっただけの、ただのサークルや市町村、国と同じなんですね。

その集まりが崩壊したときが、死と呼ばれるものなんですね。

それって、本当の死なんでしょうか?

もちろん細胞レベルでは確実に死んでいます。

しかし、今の科学ではもっと細かい素粒子まで発見されています。

じゃあ、素粒子の死ってあるのでしょうか?

ここが重要なところです。

素粒子の死がない以上、死は存在しないと考えるのが正解なのではないでしょうか?

細胞も人間の体もただの素粒子の集まりです。

そして細胞が集まって脳が出来て、色々なことを考えます。

この脳の考えることは、神の法則を確実に表したものではありません。

個人個人の考え方の違いがそれを端的に表しています。



私の個人的な考えですが、その素粒子こそ神の命の源であり、神の法則を表したものに違いないと。

生きているものが死ぬと、食物連鎖によって食べられたり、腐敗して分解されたりして、素粒子に戻ります。

これは、その形作っていたグループがただ単に壊れて、元に戻っただけなのではないかと。

だから、死というのは素粒子のグループの解散にすぎないのではないでしょうか?

そのように考えると、善も悪もなく、善や悪などというものは、人間の脳が作った錯覚にすぎないのではないかと。

日月神示の言う、ただ弥栄するだけというのはこのことかもしれません。

だから、この世に起こることは、全て神の法則の中に存在していて、神の意志の反映でもあるのかもしれない。

素粒子が集まって、何かの形を作ることも神の働きであることに違いはないはず。

あらゆる物や生き物が存在してこの世界を作っている。

その素粒子のサークル?グループ?が意志を持ち存在している。それは、グループの意志であり、団体活動の目的のようなものでもあるのですね。

その素粒子の集まりである人間や他の生き物がこの地球に共同生活をしているわけです。

弥栄するためには、歓喜に向かう必要があるわけです。

歓喜を知るために五感があり、それはその役割の細胞が担っているわけです。

歓喜は一部の者だけのモノではなくて、全てが歓喜に向かわなくてはなりません。

それが大歓喜といわれるものです。

一部の者だけの歓喜を求めるのは、獣の世界でしょう。

全てが歓喜に向かうために、悪の働きがあるのです。

その悪の働きが起きないようにすることが、弥栄に向かう近道になるはずなのですが、そのことを理解していないとまた戦争を起こし、

堂々巡りになってしまうのでしょうね。

いずれにしても、死は存在しないので、大罪というものも存在しないのかもしれません。

でも、弥栄に向かう神の意思に背いた人間には、それ相応の禊というものが訪れるのではないでしょうか?

人間が罪を犯して心が辛くなるのは、大歓喜に向かう神の意思に背くからなのかもしれません。











2019年1月19日土曜日

自分の人生を生きる。

自分の人生を生きる。
自分の人生について悩んでいる人は多いと思います。
おそらく、ほとんどの人がこの問題について納得する答えをもっていないのではないでしょうか?
かくいう私も自分の人生について的確な答えをもっているとは言えません。
常にこの問題について疑問を持ちながら生活をしています。
そして事あるごとに、この疑問が浮かび上がってきます。
皆さんは自分の人生を生きていますでしょうか?
「自分はちゃんとした人生設計を立てて、計画通りに人生を生きている。」
と、おっしゃる方もいらっしゃるかと思います。
それはそれで宜しいかと思います。
それがその人の自分の人生なのでしょうから・・・・
でも、往々にして人生とは計画通りに進まない事が多いのではないでしょうか?
計画通りに進まなくても、それを修正しながら元に戻してゆく。
それも人生かもしれません。
自分の人生を生きる。とはそういうものかもしれません。
自分の思った通りに生きる事が自分の人生を生きるということかもしれないですね。
お金をたくさん稼ぎたい。遊んで暮らしたい。有名になりたい。名声を高めたい。
社会的地位を築きたい。etc。
どれも人生だと思います。
実はこの問題を提起したのは私の人生の言訳です。
私の人生は、この社会において称賛されるものではありません。
だったら、今からでも称賛されるような生き方をしたらいいじゃないか。とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。
でも良いのです・・・これで。
価値観の違いとでも言いましょうか?
自己中と批判されるかもしれません。
空気を読めとよく言われます。
ですが、読めないんです。
読もうと思わないのかもしれません。
人は一人では生きられない。とよく言われます。
確かにそうかもしれません。
ひとりで生きられないのなら、周りの事も考えて空気を読めよ。という事なんでしょうね。
この空気とはどのような空気なのでしょうか?
たとえば10人の人がいたとします。
9人の人が考える事がその場の空気であって、一人の考える事は空気ではないのですよね。一般的には。
では一人対一人だったらどっちが空気なのでしょうか?
5対5であったらどっちが空気なのでしょうか?
まあ、そうすると世界中の人口比率をもちだして、その常識がこの世界の空気だと言う人もいるでしょうね。
空気を読んでその通りに生きる事が、自分の人生と言えるのでしょうか?
それは他人の人生を生きる事と同じなのではないかと思ってしまいます。
人によって置かれている状況は違います。
生まれたばかりの人もいれば、年をとった人もいます。
そのすべての人に同じような生き方を強いてもそれは無理というものです。
色々な状況に人に対して関心を持ち、サポートする事は良い事なのだと思います。
ですが、その人と同じ人生を歩むことは出来ません。
全く同じ人生の人ばかりであったら、何も発見されませんし、進歩もありません。
他人にも興味もわきませんね。
周りが会社に行って働いているのだから、あなたも会社員として働きなさい。というのは
真っ当な事の様でいてそうではないのかもしれません。
一人一人が違う人間なのです。
違う人間を画一化して同じように働かせるというのは、無理があると思います。
色々な働き方があるし、色々な職業もあります。選択も自由です。
同じ事をさせるのなら、DNAに違いは要りません。
DNAの違いの数だけ職業があってもいいと思います。
ですが、この今の社会ではある程度までは実現出来ていますが、完全には実現できていません。
恐らく人生で悩んでいる人の大半は、この事が原因なのではないでしょうか?
私の悩みもこれが原因なのだと思います。
しかし、今自分に合った職業が見つかったと思っている人も、そのまま計画通りに順調に事が進むとは誰が言いきれるでしょうか?
ニュースを見てもわかるとおり、山あり谷ありのない人などほとんどいない。いや、皆無と言って良いと思います。
だったら、そんなことは気にせずに自分の好きな事をやったら良いと思うのです。
明日の命の保証など誰にも出来ません。
我慢して我慢して、それでも我慢して周りの意見に左右される人生は、きっと後悔を生むと思われます。
その今の自分の考えが間違っていると思うような出来事が、起こらないとは限りません。
そんな時、全く反対の考え方になってしまう事があるかもしれません。
今の社会だってそういう逆の考え方の人が増えて多数を占めるようになれば、全く違った常識が出来上がるのではないでしょうか?
何をするために生まれてきたのか?
それを絶えず自問自答する事が大切な事のような気がします。



2019年1月15日火曜日

こんにちは。初めてのブログ投稿になります。
ビジネスに関連付けるのが目的のこのブログですが、
実際、何を書いていいのかわかりません(-_-;)
色々考えた末に辿り着いた結論は、堅苦しいことは抜きにして自由に気ままに好きな事を書こうという事でした。
ホームページを作る過程において、グーグルさんがいろいろとビジネスに役立つようにとアドバイスをしてくれるのですが、どうもそういう事を考えながら作って行くと堅苦しいサイトになってしまって、作っているほうもそうなんですが見ているほうもつまらないんじゃないかと思ってきてしまったのです。
そもそもこの仕事に就いたのは、自然が好きという事、出来れば地球環境に優しい仕事をしたいという事でした。
ならばその通りにやってやろうじゃないかと思ったら、すごく気が楽になって、自分の趣味や旅行に行った事をただ書いて行けば良いんじゃないかと思っています。
仕事ははっきり言ってあまり好きではありません。(^^ゞ
出来れば遊んで暮らしたい。(^。^)y-.。o○
なのでその通りに生きてやろうと思っているんですね。
あまり自分の事を公開したくない気持ちもあるのですが、解ってもらいたいという気持ちもあります。
まあ、この先何があるのか分かりませんが、たりきほんがんで生きてみますので、応援してください。<(_ _)>